2010年3月27日土曜日

楳木先生への質疑応答18〜伊都能売思想と地上天国


matsuki   メシヤ様程の方が、朝起きると家族の者の御機嫌を考えられていたという事は、まさに家庭天国の第一歩と感じます。現代社会でも、家庭ではお父さんの機嫌が良いか悪いかで家族皆が気を遣い、会社では、社長の機嫌が良いか悪いかに社員一同戦々恐々としていますから。


楳木先生   そういう事が、我々の考えている事と、メシヤ様の日常生活は、違っていたという様に考えられます。それから、人間というものは、どうしても、「人に指示をする」「人に何かをさせる」方が気分が良いという癖があります。


matsuki   そうですね。特に、家庭では家族の長、会社では、部長、課長と役職が上になる程そのような傾向になります。


楳木先生   しかし、メシヤ様は、献立の内容迄おっしゃられる様に、相手に何かをさせるというお考えではなく、一緒に行なうという考えであられた。共同でやるという姿勢をお持ちでいらっしゃいました。それをまとめて行くと、「男女合権」という言葉に集約されて行くのではないかと思います。「同権」ではなくて「合権」、やはり、「合わせて行く」という事です。向こうが聞いたらこちらも丁寧に答える。その様な関係を築いて行くという事が、大切なのです。


matsuki   同権だと、一つの権利を主張しあう事になりますね。ところが、合権だと、一つの権利を合わせて行なう事になります。


楳木先生   現代の様に、共働きが増えている場合、食事を作るにしても、交替で行なう事も出て来るでしょう。家事には、炊事、洗濯、掃除などありますが、これをどうするかという事も、状況によって、割合でいろいろと考えていかなければなりません。奥さんの方が高給取りという場合だってある訳ですから。仮にそのような場合、男はどうするかという事もあります。様々な状況に応じて適宜、家事の分担を考えなければなりません。メシヤ様の御在世当時と現代とでは、そのような違いは起きて来ます。そういう事も考えておかないと、家庭天国という事への正しい答は出て来ません。


matsuki   そういった事は、社会状況、環境を踏まえた上で、諸々考えて、時代時代に合わせて取り組んでいかなければならないと思います。


楳木先生   それから、例えば、人から批判的な事を言われた時、自分の機嫌が良いと、「何を言っているんだ」と笑って済ませられる様な事も、機嫌が悪かったり体調が悪かったりした時だと、同じ事を言われても「うるさい」と口に出して言ってしまいます。そういう事になると、全ての問題解決の条件には、「病気をなくす」という事があります。やはり、家庭を天国にする上においても、「健康」が一番大事という事になって来ます。


matsuki   家族全員が、「心身共に健康である」必要があるという事ですね。


楳木先生   そうすると、今度は、「心身共に健康」とはどういう事かという事になります。これは、「祈りの栞に寄せて」の中にある「神格をいただく道」に抜粋されて書かれている事を一つ一つ目指して行く事が大切なのです。


【御教え『神懸り宗教』( 昭和24年5月30日「光」号外)より】
 
 神とは、言い換えれば完全なる人間という事である。故に人間は、努力次第で神にもなり得るのである。そうして、本当の宗教の行り方は、一歩一歩完全人間、即ち世に言う人格完成に近づかんとする努力の生活であらねばならない。
 
 然らば、完全人間とは如何なる意味であろうかと言うと、真理即ち神意を骨とし、人間生活を肉と見るのである。即ち如何なる不正にも誘惑にも動かざる確固たる精神を内に蔵し、常に天空海濶的心境に在って、日常の言動は融通無碍、時所位に応じて何物にも拘泥する事なく、千変万化身を処すべきである。又、規律を尊び、怠楕を嫌い、万人を愛し、人に接しては春秋の気候の快適の如く、何事にも極端に走らず、人に好感を与える事を之努め、親切謙譲を旨とし、他人の幸福を念願し、人事を尽くして、神意に任せる態の信念を以って進むべきである。
 
 人事百般完全は望むべくもないが、一歩一歩その理想に近づく努力こそ、人として最尊最貴のものであり、斯の如き人間こそ生甲斐ある真の幸福者と言うべきである。
 
 勿論、信仰の妙諦も是に在るので、此の様な人間の集団こそ地上天国でなくて何であろう。


matsuki   家族全員がこの御教えを目指して行けば、家庭が天国となって行くと思います。


楳木先生   当然、そうなります。一人一人が、それぞれの年齢、立場に応じて、取り組むものがあるという事です。そして、世間一般で言われている様な事は、「課題というものは、少し無理な方が成り立つ」という事だから、今の自分には無理があると思う事でも、それを課題として取り組んで行く姿勢が重要です。

けれども、時として、無理な課題に取り組んでいる上で、「何故私ばかりがこんな事を」という気持になる事も当然起きて来ます。妻であれば、「何で私はこの人と結婚してしまったのだろう」と思い始めたり、また、子供であれば、横着になってしまうと、「自分は親を選べない、家族を選べない」という気持が起こって来ます。「こんな家に生まれて来る気はなかった」などと言ってしまう事もあります。

そういう時に、我々にとって有り難い御教えは、やはり、「祈りの栞に寄せて」にある「天国的生活」に抜粋して書かれています。


【御教え『信仰の醍醐味』( 昭和23年9月5日「信仰雑和」)より】
 
 本来信仰の理想とする処は常に安心の境地にあり、生活を楽しみ、歓喜に浸るというのでなければならない。花鳥風月も、百鳥の声も、山水の美も、悉神が自分を慰めて下さるものであるように思われ、衣食住も深き恵みと感謝され、人間は固より鳥獣虫魚草木の末に到るまで親しみを感ずるようになる。これが法悦の境地であって、何事も人事を尽くして後は神仏に御任せするという心境にならなければならないのである。


楳木先生   私達は、少し大変な課題に取り組んだ時には、人間の弱さとして、「何故私だけが」という気持が起きかねないので、そういう気持が起きた時には、神様という御存在が、ずっと自分を見て下さって、庭の花、鳥の囀(さえず)り等を通じて、自分を慰めて下さっている、そういう気持になる事が出来れば、いつでも穏やかな気持でいられるので、「家庭天国」に近づいて行く事が出来ます。

先ほど(前回)のストレスは、「苦痛」「快感が得られない」「人に評価されない」などが主要原因で起こるとされます。そして、交感神経と副交感神経の上手な関わり合いが必要だとも言われています。副交感神経に切り替えるためためには脳内物質のセロトニンの分泌を上手に促すことが必要で、そのためには「朝、太陽の光を浴びる」「リズム運動をする」「人と人との触れ合い(軽いタッチ)」が効果的だとされています。現代ではセロトニンをテーマに各種道場が出来ているほどです。

そして、感動の涙を流すことで脳内の血流を増やすことも重要です。こうした話をすると、メシヤ様がお食事中にラジオからの音楽に合わせてタクトを振る真似をされて御家族を和ませたり、御家族、奉仕者と共に映画や演劇で大粒の涙をな出されたりされたことも印象に残ることです。中でも、御教えに血流と精神の関係を説かれていることが、科学的に裏付けられてきていることを痛感する今日この頃です。

自分の中で、「御教え」と「生活」を線でつないで行く、これが思想の体系化である訳だから、その、思想の体系化をする時に、もう一度「伊都能売思想」というものを考えて行くと、「伊都能売思想」とは、自分の周りを天国化して行く時に、メシヤ様が日常生活で心がけていらっしゃった事を、自分の中に取り入れる為に、沢山ある御教えと自分の課題とを線で結んで、そして、自分が目指さなければならない道筋を体系化して行く事が、実は、伊都能売思想を身につけるという事だという様に考えて頂ければ、一つ一つの御教えが自分のものになり、自分の生活に取り組んで行く事が出来るのではないかと思います。


matsuki   そういった事が、「一歩一歩その理想に近づく努力」という事であり、「人として最尊最貴のもの」であり、「此の様な人間の集団こそ地上天国」となるという事ですね。


楳木先生   そうです。御教えだけが頭に入っていても、それが生活と分離していると、喧嘩になります。「御教えに照らしてみると、お前は何なのだ」と人を裁く事になりますから。その御教えが、自分の思想体系の中にきちっとした入り方をしておかないと、何かが起きた時にそれで言い合いになってしまいます。それが、分裂を生む事になります。


matsuki   御教えは、全人類に提示された物ですから、御教えを自分の外に置いて、そこに照らし合わせて人の事を見ると必ず何らかの問題点が出て来るものです。だから、一人一人が、自分が、御教えにつながった生活を課題として目指していかなければならないという事です。


楳木先生   そうですね。自分の思想体系の中に御教えを組み込んで行って、御教えは決して相手を裁く為にあるものではなく、自分を育み、自分を天国人にする為にあるものだという事を理解して、取り組んでいかなければなりません。実際に、「人に接しては春秋の気候の快適の如く」という生活をしていれば、人と争う事にはなりませんから。相手にもそういう気持になってもらえば喧嘩になり様がないのです。

また、「時所位に応じて何物にも拘泥する事なく、千変万化身を処すべきである」とある様に、仕事をしながらでも、明日の献立を聞かれたら、すぐに切り替えてそれに答える、そういう生活をされていらっしゃったのがメシヤ様なのです。そのメシヤ様を、私達は教祖として仰いでいるのだから、自分の生活も、その様な事を目指して行かなければなりません。

今月のメシヤ講座に取り上げた対談の中でも、報知新聞社取締役社長竹内氏が「強羅で初めてお目にかかった時は、何か変な物を着てくるのではないかと思ったのですが、ケロッとしてタバコを吸われているので、それからすっかりおもしろくなってしまったのです。教主の人柄から見ても、救世(メシヤ)教というのは、コケおどしに人をおどしたり暗い感じが全然ないところが、私は非常にいいと思うのです。」と語られていますね。私達も、そういう処を目指して行かなければなりません。少し偉くなるとふんぞり返る様な、そういう人間に、えてしてなり兼ねない事が多いですから。この対談も、角度を変えれば、いろいろなテーマに参考になるものです。


matsuki   「読み方」によっていろいろな事を教えて下さっている事がわかります。同じ御教えでも、何度も読むうちに、角度を変えて見るという事も大切だと思いました。「伊都能売の身魂」の御教えも、改めて、自分の生活に照らし合わせ、体系化して、日々取り組んでいかなければならないものだと感じています。その日々の実践が、個人の天国化、家庭の天国化、そして、それが広がる事が、地上天国につながって行くという事を肝に銘じて、今後も、日々の課題を一つずつ解決して行きます。
(2010年03月15日メシヤ教鎌倉支部にて)



【御教え『伊都能売の身魂』(「地上天国」三十五号、昭和二十七年四月二十五日)】
 
 私は今迄幾度となく、伊都能売(いずのめ)の身魂の事を言ったり記いたりしたが、余程難かしいと見えて、真に行える人は何程もないようである。処が決してそう難しいものではない。根本が判って習性にして了(しま)えば案外容易に実行出来るものである。実行出来ないというのは、非常に難しいと思う其(その)先入観念の為である。と共にそれ程重要な事と思っていない点もあるように思うから、幾度もかかない訳にはゆかないのである。
 
 伊都能売とは一言にしていえば、偏らない主義で、中道を行く事である。小乗に非ず大乗に非ず、といって小乗であり、大乗であるという意味である。つまり極端に走らず、矢鱈(やたら)に決めて了(しま)わない事である。そうかといって決めるべきものは勿論決めなくてはならないが、その判別が難しいと言えばいえるので、言わば料理のようなもので、甘すぎていけず、辛すぎてもいけないという恰度良い味である。之は又気候にも言える。暑からず寒からずという彼岸頃の陽気で、此(この)頃が一番快いのである。というように人間の心の持方も行いも、そういうようになれば、第一人から好かれ、万事旨くゆくのは当然である。処が今日の人間はどうかというと、実に偏りたがる。之がよく表われているのが彼の政治面であろう。今日右派とか左派とかいって、初めから偏した主義を標榜している。従って物の考え方が極端で、而(しか)も我が強いと来ているから、年中争いが絶えない。という訳で之が国家人民に大いにマイナスとなるのである。此(この)意味によって政治と雖も伊都能売式でなくてはならないのは当然だが、そこに気の付く政治家も政党も仲々出そうもないらしい。何となれば吾々に近寄る迄になり得る人は洵(まこと)に寥々(りょうりょう)たる有様であるからで、又、戦争の原因もそうで、此(この)両極端の主義を通そうとする思想から生まれる其(その)結果である事は勿論である。
 
 そうして信仰上の争いもよく検討してみると、ヤハリ小乗と大乗、即ち感情と理性との相違からである。だから其(その)場合、経の棒を半分短かくし、緯の棒も半分縮めれば一致するから、円満に解決出来るのである。従ってよく考えてみれば仲直りも大して難しいものではないのである。それに就いてこういう事もよくある。
 
 即ち如何なる方面にも保守派と進歩派が必ずあって、宗教でもそうである。此(この)二者の争いを観ると、前者は古い信者で伝統墨守的頑(かたく)なで、新しい事を嫌う、まず丁髷(ちょんまげ)信仰ともいえるが、後者の方は進歩的ではあるが、新しさに偏して何事も古きを排斥したがる。そこに意見の不一致が起り、相争う事になるが、之等も伊都能売式になれば何なく解決出来るのである。そうして肝腎な事は宗教と雖も、時代精神を深く知る事である。処が宗教人はどうも時代に無関心で、寧(むし)ろ之を可(い)いとさえしている傾向が強い。何百何千年前の伝統を金科玉条としている。成程信仰は精神的なもので、経であり、永久不変の真理であるから、曲げられないのはいいが、経綸の方はそうはゆかない。之は物質面であるから、時代相応に変遷するのが本当である。即ち精神物質両方の完全な働きで、即ちどこ迄も伊都能売式で行かなくてはならない。
 
 右(上)の意味に於て、今日釈迦やキリストの時代と同じように思って、其(その)教えや行り方を其(その)侭(まま)実行しても、現代人の魂を掴む事は到底出来ないのは言うまでもない。既成宗教の振わないのも其(その)点にある事を知らねばならない。要するに伊都能売の働きこそ、一切の根本的真理である事が分ればいいので私が常に伊都能売の意義を説諭するのも其(その)為である事を、信者諸君は充分心得て貰いたいのである。

2010年3月22日月曜日

楳木先生への質疑応答17〜個人から家庭へ


(御教え「本教と天国化運動」より 昭和24年7月20日)
 本教の最大目標たる病貧争絶無の世界とは言うまでもなく全世界をして、天国化する事である。それには先づ個人を天国化し、家庭を天国化し、社会を国家を、終には全世界を打って一丸としたる天国化であって、之こそ凡ての宗教が理想として未だ達し得なかった処のものである。


matsuki   前回の質疑応答の内容は、一言であらわすと「個人の天国化」であったと思います。地に足がついた生活、祭典の意義、伊都能売思想、全て個人の天国化から始まるものです。個人の天国化は、それこそ、一人一人が日々精進邁進すべき課題でありますが、次にある「家庭の天国化」については、更に一歩進まなければなりません。家庭は個人の集合体ですけれど、夫婦といえども、それぞれの育った環境、人格、考え方、役割、全て異なっています。その、全く違う人間同士が、一つ屋根の下で家庭を営み、そこを天国化していくという事は、文章にするとシンプルに表現されますが、実践するとなると、それこそ、全ての御教えに含まれている内容を実践させて頂く中で、成り立って行くものだと思います。 

現代社会において、親子、夫婦のコミュニケーションがうまくいっていない事から起きる社会問題が後を絶ちません。本日は、地上天国の型である「家庭の天国化」について、お話をお伺いしたいのですが。


楳木先生   この問題は、「簡単な様で難しい」という様に皆感じているのですけれど、これこそ、メシヤ様の追体験を心がければ良いのではないかと思います。家庭を天国化するにあたって、メシヤ様がどのような事を心がけていらっしゃったか。


matsuki   まず思い浮かぶのが、メシヤ様と二代様がお出かけになる時のエピソードです。メシヤ様は、何事もお早いですから、「出かけるよ」とおっしゃるともう玄関に出ていらっしゃる。ところが、二代様は、万事悠々としておられたので、何だかだと時間がかかって、やっと玄関にお出になったかと思うと、忘れ物を取りに戻られたり、車に乗って走り出してからでも、忘れ物を思い出して引き返されたりしていた。メシヤ様はその度に、「やれやれ、またか」という様なお顔で我慢してお待ちになられていたという事です。


楳木先生   その時に、我慢してお待ちになられていたのか、どう考えられていたのかという事ですよね。『景仰』を拝読させて頂いても、先達の方々からお話を聞かせて頂いても、例えば、二代様が明日の朝の献立をメシヤ様に御伺いした時に、メシヤ様は、味噌汁の具の中身まで説明されていらっしゃったというお話があります。普通の家庭だったら、「何でもいいよ」で済ませます。


matsuki   そうですね。「何でもいい」「任せる」で済ませる事がほとんどですね。


楳木先生   子供の教育にしても、「俺は外で働いているのだから、お前がちゃんと見ておけ」で終わってしまう訳です。その点について、メシヤ様の御姿勢というものは、味噌汁の具の中身までおっしゃっていた。あれだけ大きな事業をされた御方なのに、そこまで細かい部分までお話をされていたのです。


matsuki   ご飯を作る側の立場に立って、自分も共同作業する様な気持で、そのようにお答えになられていたのだと思います。


楳木先生   例えば夫婦はどうあるべきかという事について、今の時代に当てはめると無理があるかも知れませんが、メシヤ様は御教えで『妻は夫を気持よく働かせるようにし、夫は妻を親切にし安心させ喜ばせるようにする』と述べられています。「家庭の天国化」において、家庭を構成する人が心がけるべき事は、こういう事なのです。そして、子育ては、夫婦力を合わせて、叡智を働かせて、子供の将来を考えながら育てなさいという事ですから、叡智を働かせないといけないという事になって来ます。そうすると、最近では、脳の研究が非常に進んでいるので、何故女性が長電話が出来るかという事が言われているのですが、男は、長電話出来ないですよね。


matsuki   出来ないですね。電話というものは、用件を伝える為のものですから、わざわざ電話で長話をする必要はないと思います。男が長電話する時は、相手が女性の場合ですね。用件が終わっても中々切らないから、仕方なく長電話になってしまいます。

 
楳木先生   それは、男と女の脳のしくみが違うから、と言われています。男性は、電話をしながら他の作業をする事は中々出来ません。女性は、他の作業をしながらでも電話が出来るから、長話が出来るのです。


matsuki   電話で話している間も、脳の中では、会話とは別の他の作業が行われている訳ですか。


楳木先生   そうです。例えば、女性はテレビを見ながら電話出来ますね。テレビが面白くなってきたら、そちらに集中して、電話の方はパーセンテージが下がる、そして、テレビが面白くなくなってきたら電話の方のパーセンテージが上がる。そういう脳の使い方が女性には出来るらしいのです。男は、大体は、一つの事しか出来ないですから。


matsuki   テレビを見るなら電話は後回しにして見る、電話をかけるならテレビを見ないでそちらに集中する、二者択一です。


楳木先生   それは、脳の使い方の問題なのです。そういう事を家庭生活に当てはめて行くと、男と女はそれぞれ持ち味が違うから、役割分担が必要になって来ます。


matsuki   他人であれば、長電話しようが何をしようが、初めから自分と違う人間であるという認識が強いから問題は起こりません。しかし、夫婦、親子、兄弟というものは、他人として割り切れるものではないから、また、どこか自分と同類であるという意識があるから、脳の構造の違いを含めて、人間の違いを認めようとせず、自分と違う部分を中々受け入れられないのかも知れません。


楳木先生   それから、何故男と女が一緒に暮らさなければならないのかという事です。


matsuki   脳の構造まで違う人間同士が共に暮らす訳ですから、ある意味、大変な修行であるとも考えられますね。


楳木先生   全く違う、異質な者同士が暮らすという事を、修行と考えるのか、あるいは、どういう風に考えるのかという事です。


matsuki   何か、新しい物を創造する上においては、異質なもの同士を組み合わせた方が良いという事もあります。


楳木先生   結局、男と女が一緒に暮らすという事は、外部へ出て行くとストレス社会だから、そのストレスが「家に帰る事によって消える」家庭が天国と言えるでしょう。しかし、家庭に帰ってもストレスが消えない場合がある。


matsuki   消えないどころか、家に帰ったら更にストレスが増えるという家庭が多いのではないでしょうか。


楳木先生   「家庭天国」がうまくいかない事に関しては、そこが一番の原因です。


matsuki   家に帰りたくないお父さんが増えていますからね。帰っても居場所がないから、仕事を無理につくって残業したり、休日出勤したり、また、それとは逆に、夫が帰ってこない事を妻が喜んで、外出の予定を立てたり、世の中、そういう事が多い様な気がします。


楳木先生   それでは、家庭天国は成り立たないですね。基本的に、男と女は何故一緒に暮らすのか、それは、一緒に暮らした方が、良い事が多いから暮らす、という風に考えていかないと、どうしても、男は、「家族を養っているんだ、食わしてやってるんだ」という言葉が出て来てしまいます。


matsuki   その言葉が出る様では、『夫は妻を親切にし安心させ喜ばせるようにする』からは程遠くなりますね。


楳木先生   そうです。「俺に従え」という事になってしまいますから。


matsuki   今でもそういう事はあると思いますけど、最近は、女性も社会に出る様になりましたから、昔程そういう言い方は多くないと思います。しかし、それでは、女性が社会に出る様になって、自立する様になったからと言って、それが「家庭天国」につながっているとは思えません。


楳木先生   やはり、二人とも仕事を持っているにせよ、男と女が一緒に暮らす事にどういう意義があるのかという事を考えて行かないといけないという事です。そうすると、やはり、二人で暮らす事によってストレスが消える様にして行かないと、このストレス社会の中で、長生きが出来ない訳です。


matsuki   そうですね。一緒に暮らしている相手がストレスになってしまう様では、家庭を持つ意味がなくなってしまいます。しかし、御教えに『それには先づ個人を天国化し、家庭を天国化し、社会を国家を、終には全世界を打って一丸としたる天国化であって』とある訳ですから、さて、個人を天国化した、しかし家庭を天国化出来なかった、仕方ないからこの部分を飛ばして社会を国家を、世界を天国化しようとしても、そういう順序では物事は進まないですよね。私達は、景仰を拝読して、メシヤ様がどのような家庭を営まれていたのか、もっと学習し、深く考える必要があるという事です。


楳木先生   景仰で、メシヤ様のお子様方が書いていらっしゃる思い出の中に、『寝坊してもよいから挨拶だけは必ずいらっしゃい』とありますね。メシヤ様は、家庭生活の中で、「挨拶」を非常に重んじられていらっしゃったという事があります。これが「朝拝」の原点です。これを現代風に解釈して行くと、現在、家庭内での会話が少なくなっていると言われていますが、会話の原点は挨拶なのです。だから、家庭では先ず挨拶が大切で、自分でそれを心がけて、子供に躾けて行く。こういう事が疎かになると、家庭天国の条件が揃わないという事になります。それから、先程の話に出た様に、献立を相談された時に、「それはお前の仕事だろ」と言ってしまったら、その時点で、奥さんは聞かなくなります。


matsuki   夫婦が力を合わせて、共に家庭を築いて行くという姿勢ではなくなりますね。


楳木先生   「お前の仕事だ」で片付けてしまえば自分は楽なのだけど、そこで一緒に考える事によって、奥さんの気が楽になります。

今回何故くどくどとこのような話題を持ち出したかと言いますと、明らかに違う特性を持った男女だけれども共通する特性もあるということを認識していただきたいからなのです。それは、現在の脳科学では、“私達の脳は、私達が考えている以上に利他的に出来ている”ということが解っているそうです。

脳科学者の茂木健一郎氏によると「脳の中では、うれしいこと、生きる上で役に立つことが、ドーパミンという報酬物質の形で表現されています。この物質がどれくらい出るかによって、その人にとってのうれしさがわかる。このドーパミンという報酬物質は、他人のために何かをしているときにも分泌されるのです。われわれは案外、他人のために何かをするのは、うれしいのです。」ということです。

このことは、今後「家庭の天国化」に限らずあらゆる面で認識しなくてはならないことです。御教えの『利他愛』の重要性を科学的に裏付ける内容だからです。

メシヤ様の御一生の中では、家庭天国に向けていつも努力をされていたという言い方をいたしましたが、その御姿勢こそが天国天人なのだということです。「我慢して」とか「辛抱して」ではなく、「努力」されていらっしゃった。いつも、積極的に、家庭を天国にされようと考えられていたのです。

その言葉が集約されているのが、御教えの『私というもの』です。
(2010年03月15日メシヤ教鎌倉支部にて・続く)



御教え『私というもの(「地上天国」7号、昭和24年8月30日)』
 
 曩(さき)に「私の観た私」という論文を書いたが、先の客観論と違い、今度は主観的にありのままの心境を描いてみようと思うのである。
 
 現在私ほど幸福なものはあるまいと熟々(つくづく)と思い、神に対し常に感謝で一杯だ。之(これ)は何に原因するのであろうか。成程私は普通人と違い、特に神から重大使命を負わされ、それを遂行すべく日夜努力しており、それによって如何に多数の人々を救いつつあるかは、信徒諸士の誰もが知る処であろう。
 処が私のような特殊人でない処の普通人であっても容易に行われる幸福の秘訣があるからそれを書いてみるが、書くに当って先ず私の常に抱懐している心境を露呈してみよう。
 
 私は若い頃から人を喜ばせる事が好きで、殆(ほと)んど道楽のようになっている。私は常に如何にしたらみんなが幸福になるかということを念(おも)っている。これに就いて斯(こ)ういうことがある。私は朝起きるとまず家族の者の御機嫌はどうかということに関心をもつので、一人でも御機嫌が悪いと私も気持が悪い。此(この)点は世間と反対だ。
 世間はよく主人の機嫌が良いか悪いかに就(つい)て何よりも先に関心をもつのであるが、私はそれと反対であるから、自分でも不思議のような、残念のような気もする。こんな訳で、罵詈怒号のような声を聞いたり、愚痴や泣言を聞かされたりすることが何よりも辛いのである。又一つ事を繰返し聞かされる事も随分辛い。どこ迄も平和的、幸福的で、これが私の本性である。
 
 以上述べたような結果が、私をして幸福者たらしむる原因の一つの要素であるという理由によって、私は「人を幸福にしなければ自分は幸福になり得ない」と常に言うのである。
 
 私の最大目標である地上天国とは、この私の心が共通し拡大されることと思っている。この文は些か自画自讃的で心苦しいが、聊かでも裨益する処があれば幸甚である。

2010年3月5日金曜日

楳木先生への質疑応答16〜伊都能売思想


楳木先生   そのクロスの映像は、肉眼では円いものが電子の世界でクロスになって映った訳ですね。デジタルの中でクロスとなっている。と言う事は、このブログを、デジタルの中で、インターネットの世界で発信して行く事によって、クロスが成立して行く、御神業が進んで行く、そういったお知らせの様なものだと考えても良いのではないでしょうか。そうすると、このブログ「日月地」の意義というものがより明確になって来ます。


matsuki   あれを見た時に、今回の質疑応答のテーマが決まり、このように、「伊都能売の身魂」の御教えから御話を進めさせて頂いております。


楳木先生   この話は入り口みたいなものですね。ここで先程(前回)迄の話をまとめると、伊都能売思想にしても、祭典の意義についても、今迄の既成概念というものは、思い込まさせれている部分が多いという事です。メシヤ様の言葉は大変練られたものであるのですが、それが、例えば教団の先生から「参拝に行かなければ駄目だ」と言われる事はあっても、「何故参拝に行かなければならないのか」という事について、細かく、今の様な話をされる事はありません。


matsuki   「何故」という問いに対して、「決め事だから」「昔からそういう事になっているから」では、何事も形骸化して行ってしまいます。決め事だからという事で御参拝に来ても、そこで祝詞を奏上し、御玉串を包んでも、その事と実生活が分かれてしまっては、月次祭と生活が切り離されてしまって、生活が天国になって行かないと思います。


楳木先生   生活が天国になって行く為に、神様の御力を頂けるのが月次祭なのです。と言う事は、生活そのものの祭典という事なのです。そういう所に、月次祭の意義というものが定着して行かないと、何年やっても同じ事です。そして、人間としての教育が外で行なわれている事になってしまいます。   


matsuki   意義をしっかりと認識しておかないと、祭典には、人が集まるだけという事になってしまいます。  



楳木先生   そして、人間の付き合い方にしても、人をリードして行くやり方にしても、組織の教育だけで培われる事になってしまうのです。それを信仰の中に活かすという事になると、本末転倒です。信仰をやっているから、そういう事がうまく出来るのだという事にならなければなりません。それがメシヤ様の教えなのだから。


matsuki   そういう事が逆転現象している事が、信仰が生活に根付かない事、勘違い、取り違いによって間違った方向に行ってしまう事の原因だと思います。例えば、先月このブログでも掲載した御教えで、メシヤ様が「信徒諸士に告ぐ!」という御教えを書かれていらっしゃいますけど、ここに書かれている内容に、「とすれば右の一文に対し一見矛盾を感ずる人もあろうがそうではない」とある様に、二つの相反する事実の間に一つの真実が存在する事はまさに真理だと思います。説明が難しく感じるのですが、この事がわかれば、様々な問題は全て解決に向って行くと考えています。御浄霊にしても、「時所位」は必要だと思います。


楳木先生   御浄霊に関して言えば、教団浄化前の世界救世(きゅうせい)教の中で、「明主様(メシヤ様)御在世中より浄霊力が弱まって来ているのではないか」という事は囁かれていました。そんな時に、当時、私が所長をやっていた布教所の近くに、健康協会(新健康協会)の信者さんで、くも膜下出血で倒れた人がいるので、御浄霊をして頂けないでしょうかという話がありました。

くも膜下出血であれば、医者に診せないで御浄霊だけで治そうとすると問題になるので、「ご主人はどうおっしゃっているのですか」と聞くと、ご主人は未信者さんとの事でした。「それでは、ご主人とお会いして、その方がそれで良いと言うのであれば、こちらも全力で
御浄霊しましょう」という事でご主人にお会いして、お考えを確認した所、「家内が浄霊だけで治したいというのであれば、その願いを聞いてやりたいと思う」との事だったので、「わかりました。それでは、結果は、神様にお任せするという事で、私も精一杯取り組ませて頂きます。それで宜しいですね」と確認して、それで良いという事なので、御浄霊をさせて頂く事になりました。

その時、健康協会と打ち合わせをしたのですけれども、健康協会として積み上げて来た内容として急所の話がありました。「それではこちらも試してみましょう」と言う事で御浄霊をして、その方は、手術等の治療を一切受ける事なく、くも膜下出血から復帰された、という御守護を頂きました。


matsuki   当時、健康協会の方に、浄霊の急所を教えて頂いたという事なのですね。 


楳木先生   そうです。この事によって、私は、当時、世界救世(きゅうせい)教で、浄霊力が弱まっていると囁かれていた事のそもそもの原因は、浄霊の仕方にあるという事に気づきました。

それで、教団の方針とは別個のあり方を目指して、ずっと専従生活をしていました。そこで、起きてきたのが教団浄化です。だから、この教団浄化は、六億円疑惑がそもそもの問題なのではなく、メシヤ様の本来のお働きを頂ける浄霊の仕方を始め、メシヤ様の御教えに対する考え方が間違っているから起きた浄化であると考えました。その中で、教団を改革しようという組織が教団護持委員会だから、そこを支持するという事が私の中でつながって行って、教団護持委員会を支持する事になった訳です。


matsuki   今、あらためて御伺いしていても、一旦さら地にして、再び、本来の在り方に教団を建て直して行く為の浄化であった筈だと思います。 


楳木先生   しかし、その教団改革を担う組織自体も、年月を経るうちにもとの教団同様になってしまっているので、私も外でやっているというのが現状です。そういうことなので、このようなつながりを考えて行くと、御浄霊にしても何にしても、主神様とのつながりの中での認識がないと、それが世間を騒がす問題を起こしてしまうとうい事があります。どこまでも、対立軸で物事を考えてしまうと、いろいろな事件を起こしてしまう。 


matsuki   教団浄化にしても、御浄霊による問題にしても、事件が起きると、関係者の皆様は「御神業を邪魔する力が働いている」と考えてしまいがちなのですけれど、そういうものではないですね。


楳木先生   「あれは邪神界がやっている。背後に浄霊が広まる事をつぶそうとする働きがあるからだ」という考え方を持たれている方も大勢いらっしゃると思います。その部分を否定は出来ないにせよ、メシヤ様から智慧を頂いている我々が、こういった機会に見つめ直さなければならない事が多々あるという姿勢を持っておかなければなりません。


matsuki   物事がうまくいかない時は、本来の御教えにかなっていないからだという様に考えていかないと、そこで、物事を見つめ直す姿勢を持たないと、何でも「邪神」で片付けてしまうと、自分の生活の上においても、せっかく浄化を頂いても、事の本質を取り違えてしまう事になりかねないと思うのです。


楳木先生   だから、我々は、主神様という御存在を常に認識するので、今迄の宗教のように「正神」対「邪神」の闘いという構造にはなりません。主神様を信仰する者は、全てを包含する訳だから、その全てを包含する中で、自分は如何に尊い生き方をするのかという姿勢を持たなければいけません。伊都能売という事を考えても、同じ事で、縦と横の中心部分に自分が立つ事、結びつける役割という事に気づいて行けば、中心とは一体何かと言うと、絶対的な高さがないと中心にはなって行けません。自分の人生も、伊都能売思想というものを確立するという事であれば、全てを包含する中で、最も尊い生き方をして行くという事が大切なのです。
(2010年02月15日メシヤ教鎌倉支部にて)

2010年2月25日木曜日

楳木先生への質疑応答15〜祭典の意義


matsuki   善言讃詞は、世の中が、人間が、自分が、どうあるべきかをお示し下さっている、その為に、毎日、奏上している訳ですね。


楳木先生   そういう事です。そして、時には、祝詞を、善言讃詞を、分析してみるという事も大事だと思うのです。


matsuki   いつの間にか「音」として入ってしまっているから、習慣で奏上してしまっていますけれど、その内容を吟味する必要があるという事でしょうか。


楳木先生   「敬しく惟るに 世尊観世音菩薩此土に天降らせ給ひ 光明如來と現じ 應身彌勒と化し 救世主(メシヤ)とならせ」とありますね。これはメシヤ様の御神格が変わって来た(御出世)という事が一つにはあるのですけど、皆、ほとんどそれだけで終わっていると思うのです。

メシヤ様が「救世主(メシヤ)とならせ」と付け加えられた、その時に救世主(メシヤ)となられた、このように解釈されています。それでは、我々はどうするかという事です。仏滅が来て、皆神様に戻って行くという事を口では唱えているけれども、それでは、自分自身は仏滅を迎えているのかという事です。


matsuki   「善言讃詞」を祭事の時だけ唱えるものと考えている以上、「善言讃詞」と「自分」との間の境目がなくならない限り、自分は仏滅を迎えていないという事になりますね。   


楳木先生   「善言讃詞」を祭事の時だけ唱えるものという概念があると、自分は昼を迎えようとしている筈なのに、思考形態が夜の時代のままだと、メシヤ様と御縁を頂いた「救世主(メシヤ)とならせ」という所まで行っていないのです。伊都能売という事は、縦と横が結ばれるという事です。メシヤ様は、その、結ばれるとどうなるかという事をおっしゃっています。我々は、最後の審判の時に立て分けがあるという話から、どうしても、悪を切り捨てる、裁かれるという概念を持ってしまいます。


matsuki    所謂「恐怖感」ですね。「○○をしてはいけない」「○○でなければならない」という義務感が行動規範となってしまって、その恐怖感、義務感がそもそも偏っているので、伊都能売思想から程遠いものになって行きます。


楳木先生   それは初心者の時はそれで良いのです。回心も恐怖から生じることもありますし、神学により義務というものが生れ社会が整ってゆきますからね。

伊都能売思想で言うと、最後にどうなるかというと、縦と横が結ばれるという事は、両者が中心に近づいて来るという事です。善と悪も近づいて来る。それがどのように近づいて来るのかと言うと、「善言讃詞」の中に、「大千三千世界の三毒を滅し五濁を浄め 百千萬億一切衆生の大念願 光明常樂永劫の 十方世界を成らしめて」とあり、その後ろの方に、「天魔羅刹も服ひて 諸悪邪法は改り 夜叉龍神も解脱為し 諸善佛神咸く其志を遂ぐるなり」と書かれている訳ですから、例えば、悪法というようなものは全て改革されて行かなければなりません。

「諸悪邪法は改り」という事は、国会議員については、法律の作り方について、将来的にはアドバイスをして行かなければならないという事です。それから、「天魔羅刹も服ひて」という事ですから、天魔も羅刹も服わないといけない。これは、悪を切り捨てるという事ではなくて、服わせるという事です。服わせる為に、この「服う」という言葉が転じて「祭り」になっているのです。「お祭り」の語源は「服う」です。


matsuki    天魔も羅刹も服って来なければならないという事に、悪を切り捨てるという考えは全くありませんね。悪も従ってくるという事でしょうか。また、従うからには、改心する、気づくという事でしょうか。


楳木先生   これは、どのように解釈してゆくかと言うと、火素が増量して来ると、火素によって、曇りが解消される為に浄化が起きて来ます。これが大きくなって大浄化となり、その大浄化によって、天魔、羅刹が気づいて行くという事です。このままの行り方では太刀打ち出来なくなるから、神様に服って行かなければならないという様に、改心して行くのです。

そうすると、話は元に戻りますが、「服う」は「お祭り」の語源ですから、例えば、この月次祭に、諸事情を乗り越えて参拝する事によって、「天魔羅刹も服ひて 諸悪邪法は改り 夜叉龍神も解脱為し」という事になって行くのです。この月次祭に皆が集まって来る事によって、そのような事が成り立って行くという様につながって行かないと、「月次祭にご案内すれば良い」というだけの信仰生活になってしまいます。


matsuki    そういう、「祭り」の中に、「服う」事も全てつながっているという事を考えますと、天魔、羅刹も、夜叉、龍神も、やはり、自分の中にもあるという考え方も必要と感じます。そうすると、日々祝詞を唱えさせて頂く事によって、自分自身が変わって行きますし、一人一人がそのように変化して行く事は、地上天国が日々近づいて来るという事でもあります。


楳木先生    そうですね。そういったものが自分の中にあるという事で考えて行けば、天魔、羅刹の部分もある、夜叉、龍神の部分もある、そういうものが、神様が決められた日に、ここへ欠かさず来る事によって、神様の下に服って行くという事につながって行くのです。  


matsuki    そのように、「祭典の意義」というものを絶えず自分の中で組み替えて行くという作業をして行かないと、どうしても祭典が型式だけのものになってしまって、祝詞を唱えてお終いという事になってしまいます。


楳木先生    そうなると、「言葉」だけを追いかけて行くだけの信仰生活になってしまいますね。それでは、生活に根付いて行く、菅谷さんの体験報告にあるような地に足がつくという事にはなりません。また菅谷さんの話になりますが、あれだけ熱心な信仰生活を神慈秀明会の時に送っていても、何故地に足がついた生活にならなかったかと言うと、御教えが生活に根付いて、どのように生活を送って行くかという組み立てが出来ていない為に、地に足がつかない信仰生活になってしまっていたという事です。


matsuki    当時の話を御伺いしていると、信仰が生活に根付くだけの余裕がなかった様に感じられます。日常の時間の大部分が組織の為に費やされていて、自分の生活を充実したものにさせるだけの余裕を与えられていなかったとでも言ったら良いのでしょうか。


楳木先生    指導がなかったという事が一つと、そのような事を考える時間、暇を与えると、活動しなくなるから、「御神業」という名の下に、暇を与えず、駆り立ててやっていたというのが今迄の信仰のやり方だったという事です。


matsuki    これは、教団に限らず、組織に滅私奉公するという事は、偏り過ぎると自分自身の生活が地に足のつかないものになっているという事で、結局、地に足のつかない生活を送っている人間の集団がその組織になる訳ですから、組織そのものも偏ったものになって行くという事です。

映像というものはとても印象に残るもので、初めにお伝えした、満月の写真を撮影した時に映った縦と横のクロスの映像を、日常生活の中で絶えず意識する様に心がけています。そうすると、些細な事で人と仲違いする事もなくなりますし、意見が合わないという事は、縦横のバランスが偏っているという事だから、そこを調整する様にすれば、何事も円満に、解決して行きます。
(続く・2010年02月15日メシヤ教鎌倉支部にて)

2010年2月19日金曜日

楳木先生への質疑応答14〜地に足がついた生活


matsuki   先月の三十日は、一年で最も大きな満月という事で、私も、部屋の窓から大きな円い月を眺める事が出来ました。そこで、写真を撮影したところ、円い形ではなく、縦と横の光がクロスしたものが映りまして、それを見てすぐに思い浮かべたのが伊都能売でした。今後自分が取り組んでいかなければならない事、日常生活で常に心がけておかなければいけない課題を、示して下さっているように感じました。

そして、御教え「伊都能売の御魂」を改めて拝読させて頂き、日々の些細な出来事に対応する時も、常に縦と横が交錯した映像を思い浮かべながら取り組むようにしていますと、「伊都能売の御魂」だけではなく、今まで拝読させて頂いていたあらゆる御教えとつながって
行く事を身を以て経験させて頂けます。「常識」「怒る勿れ」「裁く勿れ」「調和の理論」「大乗と小乗」といった御教えは、全て伊都能売である必要を、わかりやすい事例、言葉で説かれたものである事が理解出来ます。何事も偏らない事、「時所位に応じて何物にも
拘泥する事なく、千変万化身を処すべきである」事の大切さ、メシヤ様は、こういった事を、幾度も幾度も説かれていらっしゃいます。

にも関わらず、「伊都能売」を極端な言い方で説いた途端に「伊都能売」ではなくなってしまうという、非常に繊細な部分を持ち合わせているのが御教えであり、だから、少しの取り違いにより、世間一般では、「宗教」そのものが偏ったものである様に誤解され、「カルト」も「宗教」も同じ意味に捉えられてしまっているという現状があります。そこで、本日は、楳木先生が布教される時、どのような事に注意されて伊都能売思想を説かれていらっしゃるかという事を、御伺いしたいのですが。


楳木先生   これは、中々、説明するのに難しい部分があるのですけれど、先程の御教えから、「大乗と小乗」をどのように考えていくのかという事を見ていくと、例えば、人間が悟りを開いて行く時に、二つの方法があると言われています。一つは、仙人のような生活を目指して悟りを開く方法です。これは、人との関わりもなくし、山にこもり、ひたすら自然と対話することに徹して悟りを開いて行く方法ですね。

それからもう一つは、大衆の中にどっぷりとつかって、人々を救う事を通して、悟りを開いて行くという方法です。大まかには、この、「山陰にこもる」方法と「世俗の中にどっぷりつかって行く」方法の二つがあります。

メシヤ様が説かれている「悟りを開いて行く世界」というものは、大衆の中にどっぷりつかって行く、そして、大衆を救いながら、悟りを開いて行くという事です。これは、「悟りを開く」という言葉を使うから難しくなるのですけどね。人々の中にどっぷりつかっていて、そして、悟りとは、一体何なのですかという話になって来ます。しかし、我々は、この世の中に生まれて来て、人生を歩んでいる訳ですから、「宗教」という中に身を置く人は、人生をどのように見て行くかという事を、より深く考えておかなければならないのです。

人のお世話をして行くという事は、不思議なものに導かれて、御縁が生まれて、そして、お世話をする事によって、逆に自分の学びとなったりします。ここに、人生の不思議とうものが一つにはあります。出会いや御縁があって、お世話したり、手助けしたりする事によって、救われて行くのですけれど、その人が、どういう事に取り組んで救われて行くのかという事を見る事によって、自分も学ぶ事が出来る。人生の不思議さというものを、信仰を持っているが故に、より深く学ぶ事が出来るのです。

次は、いろいろな境遇の中にある人、あるいは、問題にぶつかっている人、病気になっている人達が、メシヤ様と御縁を頂く事によって、運命が好転して行きます。そして、メシヤ様が示される御教えは、初心者用の御教えから、少し信仰の奥座敷へ入って行く御教えがあって、最終的に奥座敷へ行くと、天国天人になって行く訳です。自分自身も天国天人に向って行くと同時に、人のお世話をさせて頂く事によって、問題が解決する、病気が治る、そして段々と幸せになって行く、という事を見て行くと、人生というものは非常に素晴らしいものだという事、尊いものだという事を、人様を通して見る事が出来るし、自分も、メシヤ様との御縁を頂いた御蔭で本当に充実した人生になって行く。菅谷さんが御降臨祭で報告した「地に足がついたような」生活は、そういう動きだと思います。


matsuki   そうですね。人のお世話をして、家族も幸せになって行き、自分の生活そのものが豊かになって行くという事、これが本来の姿であると思います。自分が苦しんでいるのに人を導く事は出来ません。


楳木先生   御教えの中に、人を上からひっぱるのは簡単だけれど、下から押し上げるのは骨が折れると書いてありますから。


matsuki   まずは自分が天国人にならなければならないという事ですね。


楳木先生   そういう事です。人のお世話をするという事と同時に、自分が向上しつつお世話をして行かないと、そういう部分は見えて来ません。


matsuki   人のお世話をするという事においても、伊都能売思想が大切だと思います。相手の立場に立った上で、その人が理解しやすい様に、偏らず、常に真ん中の立場で真理を説明しなければなりません。「時所位」「千変万化」を絶えず心がけるべきだと感じております。


楳木先生   善言讃詞の中にも、「應身彌勒と化し」とあります。これ自体が、偏らないという事です。應身だから、どんな事にも対応するという事です。我々は、善言讃詞では唱えるけれども、日常生活の中に課題としてそれを持っているかというと、必ずしもそうではない事が多々ある訳です。


matsuki   やはり、我々人間に長年にわたり染み付いた癖の中に、どうしても物事を対立軸で考えてしまうという一つの型があり、そうすると、應身ではなくなってしまいます。


楳木先生   今年から、参拝方式が変わっているという意味は、そういうところなのです。尊い祝詞を奏上しているのに、その祝詞が、生活の中に溶け込んでいない。


matsuki   確かに、「祝詞」は「祝詞」、「生活」は「生活」と、そこに境目を付けてしまいがちです。


楳木先生   そうです。参拝の時の形式として「祝詞」を奏上するだけなのです。そして、夕拝の時には「善言讃詞」を奏上する。その「善言讃詞」が「参拝の時だけ」のものになってしまっています。


matsuki   「應身彌勒と化し」と唱えても、自分が「應身彌勒と化し」ていないという事ですね。「神様には唱え」ても、自分や生活は別になってしまう傾向がどうしてもありますから。


楳木先生   その「神様に唱える」という事自体が、今迄の既成概念です。「善言讃詞」は神様がおつくりになったものであって、それを、奏上する事が、神様に唱えているというように勘違いをしている。実は、神様の為にではなく、自分の為に善言讃詞を奏上している訳ですから。


matsuki   善言讃詞は、神様が「あるべき姿」を示して下さっているもので、それが自分の身に入るように唱えさせて頂いているのですね。


楳木先生   このようになれば天国になって行くという、天国の実相を神様が祝詞としてつくって下さっていて、それを私達は唱えているのです。今迄の信仰は、どうしても、神様へのご挨拶みたいな捉え方となってしまっています。


matsuki   そこが、また非社会的に思われてしまう原因でもありますね。生活とは別の次元で只(ただ)祈るだけ、挨拶するだけで、その行為が実生活に結びついていない訳ですから。


楳木先生   そうですね。その祝詞を奏上する自分はどうあるべきかという事が重要な訳です。
(続く・2010年02月15日メシヤ教鎌倉支部にて)

2010年1月25日月曜日

楳木先生への質疑応答13〜一厘の力


matsuki  「文明の創造」の仕上げについて。メシヤ様の御論文を体系化してゆく作業についてのご質問です。メシヤ様はありとあらゆる御論文をお書きになられ、「まとめるのは君達だ」と仰って下さっておりまして、これは、御論文は勿論、現代社会において、あらゆる情報、芸術、文化において、勿論新しい革命も起きるのでしょうが、大方出そろっており、それをまとめて発信する作業、情報が多過ぎて、何が真実なのかわからなくなっている時代であるからこそ、「真実を出して行く」作業が今後全ての業界で必要になってくると感じております。

研鑽資料のまとめ方、具体的な今後の計画について、お聞かせ願えますでしょうか。


楳木先生  その「まとめ方」という事が課題としてあります。御教えというものは、まず、自然の法則とか、真理、あるいは神律、そういう様なものとして存在する部分と、神律に基づいて、メシヤ様が世の中を批判されている部分があります。

そして、メシヤ様御自身が、肉体をお持ちの部分として人として心がけている事、日々実践していらっしゃった内容があります。そういうものを、「自分達の中に取り入れる」という作業が、非常に、不足している訳です。それは何故かと言うと、「浄霊」の力があまりにも強いから、宗教団体として、その奇蹟だけが前面に出過ぎてしまうのです。


matsuki   先程、神慈秀明会の方々と話していた時に、「でも、御浄霊の奇蹟があるから、組織を信じるしかない」という話が出ました。


楳木先生   そうすると、「奇蹟」とは何か、という考え方がないといけない訳です。「奇蹟」を頂いたという事は、メシヤ様の考え方からすると、「奇蹟」があるという事は、その「奇蹟」を出す神様が最高の御神格を持たれているという事、その最高の御神格から頂いた教えが「御教え」であるという事です。その様に、循環させて物事を考えて行かないと、「浄霊」は「浄霊」、「御教え」は「御教え」、「生活」は「生活」、「御神業」は「御神業」という風に、つながりのない形になってしまうので、「浄霊」の奇蹟が鮮やかであればある程、「御教え」というものは、その奇蹟を現す根本の神様が垂れた御教えだという認識がなければなりません。

そして、その「御教え」に基づいて、世の中を批判出来る「素養」というものを自分達は身につけなければいけないのです。それを身につける時に大事な事は、「霊力」を身につける時と一緒で、「学習」と「体験」が必要になって来ます。メシヤ様の御在世の時から50年以上を経て、科学的なものは飛躍的に進歩しています。それから、生命誌をはじめとした、宇宙の成り立ち、地球での生命の進化の過程、こういった事が明らかになって来ています。また、小さい世界を見つめるものについても、nanoテクノロジーまで行っている訳ですから、霊科学の世界迄見る事の出来る寸前迄来ています。このような時代になっているので、そういった認識を基にして御教えを再び拝読させて頂き、その時代を見るという事が、次の段階では大事です。

そして、「学習」と「体験」に併せて「人格」というものがあります。そこで、今度は、メシヤ様御自身が、あの時代に、人として大変努力をされているし、心がけもなされています。いつもお話するのは、原稿の口述筆記をされた時に、後片付けは、奉仕者にはさせませんでした。深夜2時に終わった時に、ご自分で、冬であった場合は火鉢の炭に灰をかけて、きちんと火の始末をして、それから御休みになられた。そこに、奉仕者に「後は頼むぞ」という姿勢はなかった。そのように、人間として、努力をされていらっしゃる、あるいは、
心がけていらっしゃる、心がけなくても身についていらっしゃる生活態度、これこそが、私達が学ばなければならない内容なのです。


matsuki   人として、当たり前の事をやっていくという基本の部分ですね。


楳木先生   そうです。そして、その当たり前の事の中にも、高低の差がある訳だから、更に高まって行くという事。人に心を寄せたり、心配したりするという事は、もっと深く、我々は更なる深みを身につけるべきだという事です。高く、低く、「鳥の目」と「虫の目」を同時に持っておかなければいけないという事は、我々が、御神業を進めて行く時、取り組もうとする時に、必要な事です。


matsuki   「鳥の目」だけで、高い所だけを話しても全然伝わりませんし、「虫の目」で話すと言っても、高い所から、俯瞰的に見ておかないと全体像が捉えられません。御教えにしても、何年も何年も繰り返し拝読していて、頭でわかったつもりになっていてた事が、日常生活のふとしたきっかけ、体験によって、ようやく今頃になってすとんと腹に落ちる瞬間もあります。

豊橋市の松井さんの体験報告に「今後の課題は自分に染み付いた悪い癖を改善していくこと」とシンプルに語られている事が、実は、最も困難で、日々の実践の積み重ねの中で、或る日何かが一つわかるといった事だとも思います。だからこそ、学習を続ける事が大切だと
最近とみに感じております。


楳木先生   そうすると、増々、「九分九厘と一厘」の、「一厘」というものをわかっておかなければなりません。例えば、「一厘の力」というと、「メシヤ様の力」ではないかとか、人によっては「大メシヤ」だとか、あるいは「大弥勒」だとか、このような表現を使ってイメージを膨らませる様な人も多い。

しかし、これは御教えをそのまま読めばいい訳で、要するに、「主神様の」と書かれている。だから、先程の話と共通するのだけれども、「主神様」から出る力だから、浄霊力が最高であるという事。これを神科学ともおっしゃる。そういう力を出す事が出来るから、そこから頂く教えは、「真理」なのだという捉え方をして、この「真理」を以て行く事が、実は「一厘の力」なのだという捉え方をしないといけません。

「大メシヤ様が出て来るんだ」とか、「いや大弥勒だ」とか、あるいは「国常立尊」だとか、そういう世界ではないという事です。主神様からメシヤ様を通して出られた御教えを、我々は如何に実践して、普遍化して行くかという事が、実は「一厘の働き」なのだという姿勢を持っておかないと、いつまで経っても人を当てにしてしまう。「自分ではない」という事になって行ってしまう。この点を、取り違えない様にして頂きたいと思います。


matsuki   わかりました。本日は、皆様の体験報告等の、生活面に即した質問から始めたからこそ、先程の話から言うと「虫の目」で見た話からお伺いしたからこそ、それを「鳥の目」から見たらどういう事なのかという事が理解出来ました。いきなり「鳥の目」から始めると、取り違いが生じる可能性がある事もよくわかります。真実は一つなのですけど、それを取り違える事によって、沢山の事実が生まれてしまうという事も、ここ数年感じて来た事です。一つの真実も、10人が見れば10通りの解釈が生まれますし。その、10通り解釈が出来れど、一つの真理という共通認識を作って行く事が、日々のコミュニケーションにおいて重要だと考えています。


楳木先生   10人いれば十人十色の捉え方があって良い訳だけど、それを包含する、大きく取りまとめて行くという事が「思想」なので、この取りまとめるという事がどうかという事、そういう姿勢を我々は持っておかないと、科学というものを考える時でも、御教えにある「火水土」や「日月地」を科学とは別の世界で見てしまうと、これはまた、勘違いが起きて来ます。ですから、地球自体が出来た時の45億年前から現在迄、地球自体が刻々と動いているのを見つめて行った時に、火水土の働きの中で、いろいろなものが生成化育されて来た、それを実証しているのが、所謂「科学」であるという様に見て行くと、殊更「火水土」にこだわって説明する必要もないという事。

主神様を信仰している我々としては、あらゆるものを包含し、ゆるやかに束ねて行く気持の方が重要です。そうすれば、様々な学問で明らかにされて来た研究内容が、全て主神様の御経綸が現われた形なのだという捉え方が出来る。今の我々としては、とりわけ若い人達には、そのような、大きな捉え方が大事なのです。
(2010年01月11日メシヤ教鎌倉支部にて)

2010年1月17日日曜日

楳木先生への質疑応答12〜本来の信仰の在り方


matsuki  本日、鎌倉支部発会式という事もあり、菅谷さんの体験報告から強く感じた事を御伺いさせて頂きます。体験報告を聞いていると、メシヤ様の御教えとは正反対の事が神慈秀明会で行なわれている事が多い様に思われるのです。例えば、自分のグループ以外のものを認めないなどの脅迫信仰とか、これは人に言ってはいけない等の秘密主義であるとか、人の事を邪神と呼ぶなど、もし御教えの「神は正なり」や「大乗たれ」を拝読させて頂いていたとすればあり得ない様な出来事が起こっています。何故このような事になってしまうのかという事、しかも、それによって組織が成り立ってしまう事がよくわからないのですけど。


楳木先生  考え方によっては、人力で組織を運営しているという事でしょう。上手に、人を制限して、ある一定の方向に向けて皆を誘導している訳だから。そういう点では、人力によって組織作りをしていると言えます。高い神格の神様によって、という感じではありませんね。


matsuki  皆様に、人力ではなく神様のお導きによる信仰を御理解頂かなければならない、と考えているのですけど。神慈秀明会の皆様は、とても感じが良く、信心深い方が多いので、余計それを感じます。


楳木先生  菅谷さんが求めていたのは、本来の道です。メシヤ様が示された本来の信仰というものを求め続けて、そして、いろいろな体験を積んで、鎌倉支部発会という事につながって来た訳だから、「本来の信仰の在り方」というものが主題ではないかと思います。

しかも、菅谷さんは「神慈秀明会は問題は多いが、自分をメシヤ様につないでくれた教団」として批判のみではなく、感謝しているところが尊いと思います。


matsuki  「本来の信仰の在り方」を求めて、体験報告にある様に「メシヤ様と直に太く繋がらせていただく」という事ですね。


楳木先生  神慈秀明会の皆さんは「純粋」という素晴らしい面をお持ちになられている。その「純粋」さが本来の道になればものすごく生きて来る訳で、今は、まだその「純粋」さが生きていない状態だと思います。だから、勿体ないのです。この人達に本来の道を教えたら、どんなに大きな御守護に包まれて生活を送る事が出来るかという事です。


matsuki  それには、菅谷さんが克服されて来た様に、自分の置かれている環境そのものが、本来の道へ向う為の一つの試練と考えて、何事も、前向きに取り組んで行く事が大切だと感じました。


楳木先生  鎌倉支部が、そういう場になって頂ければ、それこそ、天国化に繋がって行くんですね、本当に。


matsuki  鎌倉支部は、ほんの一ヶ月前、まだ改装前に来た時、二週間前に引っ越しを手伝った時、そして本日と、三回御伺いさせて頂いていますが、準備、段取り、この年末年始の忙しい時期に、あり得ない程のスピードで完成して行くのを目の当たりにしますと、まさに御神力、奇蹟を見せて頂いているとしか感じられません。


楳木先生  これは、やっているご本人(菅谷さん)が一番感じているのだけれども、寸分違わぬ、ピタッ、ピタッという言葉が最も適切な表現の様に進んで行く。この、ピタッ、ピタッという事を考えると、メシヤ様が聖地建設をして行った時の、要するに、必要な時に、必要な石が出て来たとか、そのような、形は小さいけれども、メシヤ様が、地上天国の雛型を建設する時と、同じ状態で進んで行っているという事です。

だから、この形を大きなものに、あるいは、皆が、共有出来る様にして行けば、この場の周りから、地上天国建設という事が、具体性を持って、語れるのではないかと、その様に思います。

また、発会式でもお話いたしましたが、対談記は私達の進み具合に合わせるかのように掲載順序が一致しているのです。メシヤ様にお導きいただいているように強く感じるところです。今回メシヤ様は『人間で一番悪いのは、あせりだ、あせるから無理をする。一番心得るべきことだ』と御述べになっておられます。

いざ決まってしまうと寸分違わぬように進みましたが、この物件は昨年夏に見つかったのです。しかし、条件が合わずに契約を見送ったのです。あせらなかったのです。そして、様々な物件を広範囲で探したのです。そうしましたら、秋になって好条件で話が再度入ってきたのです。どの角度で考えても、神様に御鎮まりいただける場所だと思えたのです。菅谷さんご自身の努力とメシヤ様のお導きで、全て順調に進んだのです。それ故に、この場を通して地上天国建設の取り組みが更に進むと確信いたします。
(続く・2010年01月11日メシヤ教鎌倉支部にて)